あの頃のジョナサン・ラーソンも、こんな感じだったのかなぁ・・・

先日、友人の紹介で あるバンド のライブを観に行きました・・・
ライブを観ていたら、「まだ売れてない頃のジョナサンもこんな感じだったのかなぁ」と、ふと思いました。
みんなが良いというからじゃなくて、自分で良いと感じることを大切にしたいですね(^^v


Yahoo!JAPAN登録サイト

RENT(レント)-MakingV 〜1994年11月ワークショップ〜

11月のワークショップには、プロデューサーのジェフリー・セラーもビジネスパートナーのケビン・マッカラムを伴って来ていた。ケビンはものすごいものを観たと興奮し、すぐさま出資のための小切手を準備したという。数日後、再び二人はビジネス仲間のアラン・ゴードンを連れて、ワークショップを訪れた。ジェフリーとケビン同様に、アランもいたく感動し、3人でこの作品に共同で参加することを決めた。3人が資金を提供し、その代わりに商業権を獲得するというもの。予算は、25万ドル。この金額は、それまでのニューヨーク・シアター・ワークショップが経験したことのある最高額の2倍にあたる金額でした。1995年、ニューヨーク・シアター・ワークショップの幹部会の結果、RENTの上演が正式に決定し、さっそく更なる作品のブラッシュアップへと取り掛かった。

▲ページ上部へ戻る

RENT(レント)-MakingV 〜RENTの完成とジョナサンの死・・・〜

ジムは、さっそく、ジョナサンに協力するドラマターグとして、リン・トンプソンを雇い入れた。(注:ドラマターグ:新作の場合、主に、脚本家に客観的なアドバイスを与え、脚本の練り直しを行う人)
ジョナサンとリンはすぐに意気投合し、秋に始まるリハーサルに備え、二人の作業は進み、夏の終わりごろには改定稿を完成させていた。

1995年10月、新しい台本が完成し、ジョナサンによる6年に及ぶRENT制作作業は完了したと思われた。しかし、実際に俳優を集め台本を読み合わせてみると、いくつかの問題点が浮かび上がった。キャスティングが進行し、12月からのリハーサルまで6週間を迎えた時期だったが、ジョナサンは再び改定作業を始めた。

12月のリハーサルが開始される直前、ジョナサンはRENT(レント)の最終稿を完成させた。1日20時間に及ぶ作業を続けた結果だったという。この驚異的な作業によって、ジョナサンはRENT(レント)を1つの物語としてまとめあげることに成功した。リハーサルが始まると、あっという間に曲の入れ替えなどの微妙な調整が行われ、現在のRENT(レント)の形が出来上がっていった。1996年1月にリハーサルを見た、ジムはそのインパクトの強さに驚愕したという。
また、オペラ「ラ・ボエーム」の初演からちょうど100周年目に、その「ラ・ボエーム」のロックミュージカル「RENT(レント)」が上演されると、ニューヨークタイムズは報じたが、関係者は誰一人としてそんなことを知らなかったという。

そして、1996年1月24日、初日の前日だった。数日前から、大動脈瘤の発作に襲われていたジョナサン(注:当時、ジョナサン本人も周囲の人間も、病名を知らなかった。ジョナサンの家族は、病院側の誤診を訴えている)は痛みをこらえて劇場にやってきて、通し稽古を見ていった。リハーサルを見届け、ニューヨークタイムズのインタビューに答えて、家路に着いた。わずか、1時間後、ジョナサンは35歳という若さでこの世を去った。

▲ページ上部へ戻る

RENT(レント)-MakingV 〜RENTという伝説の始まり〜

1996年1月25日、初日。ジョナサンの訃報を受けて、公演の中止が考えられた。しかし、夜になると、ニューヨーク・シアター・ワークショップには、ジョナサンが愛した人々や家族、仕事仲間たちが次々と集合して満員になった。ジムは、歌だけの上演を行うことを決めた。キャストは椅子に座って歌を歌った。2幕に入ると、誰ともなく立ち上がり、踊り始めた。みんなが泣きながら踊らずにはいらなかったという信じがたい出来事。キャストが去っても、観客は誰一人として席を立とうとはしなかった。再びキャストが舞台に戻ると、キャストが客席の最前列に並んで座った。

そのとき、客席から大きな声が響いた・・・
「ありがとう、ジョナサン・ラーソン」
最大の拍手が劇場を包んでいた。

そして、ここにすでにRENT(レント)の伝説が始まっていた。
オフ・ブロードウェイで始まったRENT(レント)は、わずか2ヶ月でブロードウェイへ。
ミュージカルとしては、11振りのピュリツアー賞の受賞をはじめ、トニー賞・オビー賞の各部門の受賞など、数々の栄冠を手にした。
そして、今も・・・。

▲ページ上部へ戻る