あの頃のジョナサン・ラーソンも、こんな感じだったのかなぁ・・・

先日、友人の紹介で あるバンド のライブを観に行きました・・・
ライブを観ていたら、「まだ売れてない頃のジョナサンもこんな感じだったのかなぁ」と、ふと思いました。
みんなが良いというからじゃなくて、自分で良いと感じることを大切にしたいですね(^^v


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RENT(レント)-MakingU 〜初稿ができるまでに1年〜

ジョナサンは約1年をかけて、RENT(レント)の初稿を書き上げている。舞台はイーストビレッジにしたものの、ジョナサン自身はウエストビレッジの出身だったため、イーストビレッジへ取材へでかけることもしばしばだった。友人で映画作家のエディー・ロゼンスタインと連れ立って、ロケハンにでかけたという。
取材を終えると、ジョナサンはRENT(レント)を書き上げることに没頭した。レストランでのバイトを週3日に減らし、残りの4日を全てRENT(レント)の制作にあてた。日曜の夜に、大きな鍋でパスタをゆでて、それを1週間分の夕食にした。そして、朝食は毎日シリアルだったという。
できる限り思考と時間の全てをRENT(レント)という作品に注ぎ込んだジョナサンの情熱をうかがい知ることができる。

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RENT(レント)-MakingU 〜劇場探し〜

1992年の夏、ジョナサンはRENT(レント)の初稿を書き上げ、数曲の音楽の録音を終えると、自転車に飛び乗って街に出た。ジョナサンは、RENT(レント)に合う劇場を探しに出たのだ。
ちょうどその頃、9年間ほとんどストリートプレイしかしてこなかったニューヨーク・シアター・ワークショップが、新しいミュージカルを上演したいと、イースト4thに新しい劇場をオープンする準備を進めていた。
劇場を探して、イーストビレッジを飛び回っていたジョナサンは、まだ工事中だったその空間を見たときに「RENT(レント)にぴったりの空間だ」と思ったという。ジョナサンは、その日のうちに、ニューヨーク・シアター・ワークショップの芸術監督ジム・ニコラに、録音テープを送った。まだしっかりとしたストーリーと呼べるモノは完成していなかったけれど、その曲だけで十分にインパクトがあったという。
1993年の春、ニューヨーク・シアター・ワークショップで、RENT(レント)の本読みが行われた。そこにはプロデューサーのジェフリー・セラーも居た。ジェフリーは、自らもロックミュージカルをブロードウェイで上演したいと考えていた。ジョナサンのことを以前から知っていて、いつかジョナサンはすばらしい作品を作るだろうと注目していたのだ。しかし、本読みを聞いたジェフリーの感想は、全体に散漫でコラージュのようだったという。実際、他のプロデューサーの中には休憩中に帰ってしまい、この作品は救いようがないと忠告する者も居た。しかし、ジェフリーは、音楽の質に見合うだけのストーリーがあれば成功の可能性があるはずだと感じていた。

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RENT(レント)-MakingU 〜演出家マイケル・グライフ〜

本読みを経て、演出家が必要だと考えたジムは、ニューヨークの若い演出家、マイケル・グライフに声をかけた。ジムは、ジョナサンの楽天的なモノの見方に対して、うまくバランスが取れるような、厳格で冷静な演出家を探していた。当時を回想してジムは言う。「あの頃、この題材は非常に微妙で危ういものだった。少しでも誤れば、センチメンタルになったり、ごまかしになったり、いくらでも失敗の可能性があった。マイケルの冷静な目と鋭い切り口が、ジョナサンの書いたものと上手くバランスが取れることを期待したんだ」
1994年、マイケルはジムとジョナサンに会った。その年の11月に行われるワークショップに向けて、音楽に見合うだけのストーリーを台本にしていく作業が始まった。ジムの期待通り、楽観的なジョナサンの感性と冷静なマイケルの感性がお互いを刺激し、創造的な火花を散らしたという。
当時の二人を知る、マーク役のアンソニー・ラップは言う。「ジョナサンがマイケルに与えたものは、希望、暖かい心、熱いエネルギー。逆にジョナサンが与えられたものは、鋭さとリアリズムと奥深さ。見事なコンビだった」
そして、11月のワークショップは大成功を収めた。まだまだ欠陥はあったものの、2週間の上演期間中、次第に観客は増え続け、最後には売り切れが続くほどだった。多くの人たちから熱狂的に支持されたのだ。

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